月の綺麗な夜だった。その日は珍しく雲が無く、真っ暗な夜空に浮かんだ月が何に邪魔される事も無く、周囲をじんわり青く染めていた。店を出て何気無く空を見上げて、見入ってしまうほどに綺麗だった。
 だが、しばらくすると足元から寒さが這い上がってきた。秋と呼ぶには涼し過ぎるそれは瞬く間にわたしの足から温度を奪った。
「スカートなんか履いてくるんじゃなかったなー……」
 ぶつける相手のいない愚痴は空へと消える。月を見るのをやめ、駅へ向かって歩き出す。

 ホームに上がって電車を待つ間もずっと月を見ていた。たった一人で何も考えずに見ていたからか、いつの間にか月に引き込まれ、周囲の音が耳から遠ざかっていく。ここにあるのは月と空と自分だけ。それ以外に何も無い、それだけの世界にいる錯覚。いるのにいない、あるのにない不思議な、それでいてどこか安心する世界の中でただぼんやりと電車が来るのを待つ。
 電車の接近を知らせる放送がホームに流れ、月から引き戻された。ベンチから立ち上がり、光のする方を見る。音や声など無くなっていたはずものがいつの間にかそこに戻っていた。
 長い事待っていたせいで体は冷えきっていたのだが、不思議と寒いとは思わなかった。

 電車がホームに滑り込む。

 世界が――消えた。

 ドアが閉まり、滑るように走り出す。ホームから遠ざかるにつれ閉塞感が増していく。どこか息苦しい。ホームに長時間居て寒さに慣れたせいだろうか、暖房の熱くらいで暑いと感じてしまう。フラフラとドアに寄り、額を窓にぴたりとつける。ひんやりとしていて気持ちが良かったのでそのままで居た。周りの目が気になるところだが、遅い時間だったのが幸いして車内はがらんとしていて、ガラスに頭をつけている珍妙な中学生に意識を向ける者はいなかった。それを確認すると視線を外へと――その真ん中に浮かぶ月へと――戻した。
 夜空の真ん中にぽっかりと浮かんだまんまるの月が沿線の家々を白く白く、青く青くどこまでも優しく照らしていた。  そんな中で一つだけ、小さな違和感が目に入り、一瞬で視界から消えた。確かめる事の叶わぬそれは、確かめるまでもなく確信へと変わっていく。あの後ろ姿は――。

 駅に着き、電車が出発するのを待ってからがらんとしたホームの端で冷気で肺を満たすように吸い込めるだけ息を吸い込んだ。すると同時にすーっと頭から熱が抜けていった。次は頭以外の熱を込めるようイメージして息を吐き出し、数秒経ってから目を開ける。こうして体を電車に乗る前の状態に戻す。
 改札は抜けずにホームにある自販機でコーヒーを買い、乗った駅と同じように月の昇っている方角を向いてベンチに座った。そして考える、あれがなんだったのか。いや――考えるまでもない、見間違える訳ないのだから。わたしが気にしているのはそんな事じゃ無い。誰、ではなく何故。理由なのだ。

 翌日、実際にその姿を見た場所に登った。ベンチに腰を掛けて考えて、数分してからわたしの頭じゃ答えなんか出やしないという結論に至り、それなら本人に聞くのが一番早いと気付いたからだ。そして手に持っていた缶コーヒーを一気に飲み干し、大股で改札を抜けた。今思うに少々興奮していたのだろう。少し、恥ずかしい。
「にしてもよく場所憶えていたな、わたし」
 一瞬しか見ていない場所が判るなんて自分でも驚いた。地元の路線じゃなきゃ無理だっただろうな。見飽きるほど見ていたせいで夜だというのにそれがどこだかハッキリと記憶していた。
「到……着、っと」
 登り切り膝をつく。高さもそうだがその不安定な足場が気力と体力を奪っていった。息を整えつつ周囲に昨日の後ろ姿を捜した。
「誰」
 姿を見つけるより先に声がした。低く短い、それでいて柔らかな声が。
 声のした方を見ると、わたしに背を向けて座り、何かを探すように頭を動かしていた。
「――――理恵」
 後ろを振り返る事無くわたしの事を思い出したようだ。気配というやつなのだろうか。
 呼吸が落ち着くのを待ってから声を掛ける。
「一体どれくらい振りになるんでしょうね――ナナコさん」

 その登った場所とは今は廃止になったモノレールのレールの上だった。
 昔、なにかのイベントの際に造られたらしいのだが、利用客が思ったように伸びず、しばらくして廃止になったそうな。
 普通はすぐにレールも(恐らく)撤去されるのだが、どういうわけかそのまま放置されている。疑問に思って以前誰かに聞いた事があった。だが本人に...

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